2007年1月 9日 (火)

「遣新羅使人の歌(巻15)」

●『万葉集』の「遣新羅使人の歌(巻15)」は、【光明皇后(孝謙太上天皇)の寵愛を受けた、紫微内相・藤原仲麻呂謀反に拠る、西暦755(天平勝宝七)年の聖武天皇〔人麻呂〕の隠岐島流罪(&高円宮・石川朝臣広成・血鹿島流罪と双子の広世・伊豆島流罪)の歌群】です。
その流罪の途次、広島県の港にも寄りながらの歌が載せられています。
【紫微中台・孝謙太上天皇(光明皇后)、紫微内相・藤原朝臣仲麻呂(恵美押勝)】
     安芸津の風早
★君【聖武天皇】がゆく海辺の宿に霧立たば吾【光明皇后】が立ち嘆く息と知りませ
   光明皇后=孝謙太上天皇(巻15・3602)
★我【聖武天皇】がゆゑに妹【光明皇后】嘆くらし風早の浦の沖辺に霧棚引けり
   隠岐島流罪時の聖武天皇(巻15・3637)
  倉橋島の桂が浜
★石走る滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ
   隠岐島流罪時の聖武天皇(巻15・3659)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年12月16日 (土)

「三人の、紫式部」とは誰?

★「(小野)紫式部」=【京都・紫野に在る、傍墓・小野篁(たかむら)よりも大きな、紫式部の墓
=小野小町の墓(遺骨の有無は判らない)】

花【君臨者】の色はうつりにけりないたづらに
わが身 世【★わが御代】にふるながめせし間に
   小野小町【世を偲ぶ、太上天皇の仮の呼称】
【かの望月の道長さえも、「わが世とぞ思ふ」と「思ふ」を付けなければならなかった】


★「(源)紫式部」=『源氏物語』の創作者・物語の中では「貶められている「源内侍」
=【(実名は)高階(たかしな)貴子(きし・たかこ)】
=藤原朝臣道隆の妻、
=中宮・定子の母(馬命婦)
=清少納言・『枕草子』の創作者

「光源氏」=【儀同三司伊周(これちか・(父は)円融天皇、(母は)清少納言=馬内侍】

『枕草子(伽耶の皇統)』では、中宮定子を「をかし」、
『源氏物語』では、「須磨流し」の儀同三司伊周(これちか)・光源氏を「あはれ」

   高階貴子(千人万首より……高階氏は長屋王の末裔と伝わる。式部大輔従三位高階成忠の娘)
http://yullian.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/kisi_t.html

★「(藤)紫式部」=【円融天皇の皇后遵子(そんし・じゅんこ)】=『源氏物語』の改竄者。
  『紫式部日記』……【文才の無い、(藤)紫式部・遵子(そんし・じゅんこ)】の筆に依る】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8%E6%97%A5%E8%A8%98

   『枕草子』
「猫は上のかぎり黒くて、ことはみな白き」……(上の限りの背中は黒くても良いが)……

=【倭根子の上の限り・太皇太后の遵子は、とても腹黒い女だ! 
……『枕草子』清少納言の、(藤)紫式部・遵子への悪口】

猫は……猫【倭根子(やまとねこ)・皇統譜上の人物】は上の限り【背中・太皇太后の掛詞】黒くて、

  例)
鴨山の岩根し枕ける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ  人麻呂【聖武天皇】臨死歌 (巻2・223)

「鴨山」=【隠岐島・島後・西郷町加茂山(歌木)と、藤原不比等妃の賀茂姫との掛詞】

「岩根し枕ける」=【倭根子(やまとねこ)……皇統を枕にして】
  注)
藤原不比等とその妃・賀茂姫とに、「(太上天皇)藤原宮子(椿)」が居る。

巨勢山【藤原系】のつらつら椿【君臨者(藤原宮子)】つらつらに
見つつ偲はな巨勢の春野【天智系(春)文武天皇】を (巻1・54)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「菖蒲池古墳の被葬者」

「菖蒲池古墳の被葬者」ですが、そもそも、
「菖蒲(しょうぶ)」の別の呼称に、「菖蒲(あやめ)」がありますが、
「菖蒲(あやめ)」=【(人を)殺め】、の意味を隠しています。
「池(いけ・ち)」=【血 & (天智の)智】が隠されているようです。

額田王・大田(十市)皇女(山吹)は、天武天皇【高句麗王・泉蓋蘇文】に、《毒殺・
李 寧煕(イ ヨンヒ)説を支持》されています。
 時代は下りますが、中宮定子も、四【死】条の宮に於いて、円融天皇の皇后遵子(そ
んし・じゅんこ)
=【『源氏物語』を改竄した、文才が劣る(藤)紫式部。藤原朝臣公任の姉】に、
青ざし【青酸カリ】で以って、毒殺されています(⇒花札の「菖蒲(殺められた)」)

なお、「益田の磐船」=【ひび・割れ目に拠り、途中で放棄された、二人の額田王の陵
石……未完成】が【私見】。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月20日 (月)

「君臣合体」とは?

君子(くんし)と臣下(しんか)が合体する事を、
「君臣合体」と言います。
それは、「君子と臣下(人麻呂)が同一人物」でもあると言う事です。

今まで、君子は「平城天皇」と思われてきました。
でもそれでは、人麻呂と同一人物ではありません。

処が、「国家珍宝帳(東大寺献物帳)」の巻末辺りに、
次の記載がありました。

 「右平城宮御宇  中太上天皇御書」

これは、「中太上天皇」が【光明皇后】であり、
「平城宮(御宇)」が【聖武天皇】である事を指しています。

即ち、「君臣合体」とは、【君子・聖武天皇〔平城宮〕と、
臣下・人麻呂】とを指しているのです。

聖武天皇〔平城宮〕……大津皇子として生まれ、
人麻呂として、隠岐島の加茂山(鴨山)にて没しています。

「いろは歌」の「咎なくて死す」は、孝謙太上天皇(光明皇后)の
寵愛を受けた、紫微内相・藤原仲麻呂(恵美押勝)の謀反に拠る、
聖武天皇〔平城宮〕の隠岐島流罪(終焉地)だったのです。

「かかるに、今、天皇の天下知ろしめすこと、四時(よつのとき)
ここのかへりになんなりぬる」……
【四字の天平勝宝(九年間)=平城宮・聖武天皇】。
君子は、決して「(後代の)平城天皇」ではありません。

小野 篁(たかむら)は、遣唐大使の遣唐使船取替えの命令を
拒否し、隠岐島流罪になりましたが、その時、聖武天皇の
隠岐島流罪を知ったのです。

鴨山の岩根し枕ける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
  人麻呂【冠位を剥奪された、聖武天皇】(巻2・223)
   和(こた)ふる歌
荒海にたゆたふ銀河待ちにけり隠岐に入り日の秋の夕暮
   銀河 秋彩

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年11月13日 (月)

「一大事」とは?

★「(邪馬)壹」と「(邪馬)臺」問題

  「一大事」とは、「壹」+「臺」の「事」
=【壹(いち)臺(だい)事(じ)】である。
即ち、「(邪馬)壹(連合国)」と「(邪馬)臺(連合国)」の「事」である。
 これらから、
(初めて)共立された女王・卑弥呼(君臨)の、
「邪馬壹(連合国)」・【物部系】と、
 宗女・臺与(君臨)の、「邪馬臺(連合国)」・【蘇我系】は
【別国】である。

★「天の岩戸伝説」の意味するもの
 西暦247年3月24日の「日の入り時の日食」
=【卑弥呼の死⇒連合国崩壊】と
 西暦248年9月5日の「日の出時の日食」
=【「邪馬(連合)臺国」の臺与政権誕生】

★『魏志東夷伝倭人条』に記載の、
卑弥呼(君臨)の「邪馬壹(連合国)」は、
卑弥呼の直接統治国=「壹国(ゐな)・薩摩」よりも大きい。
共立された女王・卑弥呼(君臨)の「邪馬壹(連合国)」は、
西暦247年に、卑弥呼の「以死」に拠り、崩壊しても、
卑弥呼の「壹国(薩摩)」は存続し、
のちに(芳の廃帝後、晋の司馬懿により)復活している。
それが、中国南朝に朝貢した【倭国・九州筑紫王朝・物部系】である。
「姓は阿毎、字は多利思北狐、阿輩雛彌と号した利歌彌多弗利」や、
君臨者・皇極太上天皇や統治者・孝徳天皇は、こちら側。

★他方、『万葉集』に記載の、
「邪馬臺(連合国)」の臺与(→台与→豊)は、
のちに、『隋書』の、【イ妥国・九州豊国王朝・蘇我系】である。
隋の煬帝には認められなかったが、
「日本国」を名乗った【小野妹子は君臨者(女王)】。
こちらは、中国北朝(隋や唐)に朝貢している。

大君の和魂あへや豊国の鏡の山を宮と定むる
  (巻3・420)
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず
  (巻3・421)
岩戸破らむ手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく
  (巻3・422)
また、『万葉集』の巻誤には、魏使の上陸地点「松浦川に遊ぶ序」や
斉王 芳(魏の少帝)の「芳命を奉(うけたま)はらむ」の記載あり。

即ち、我が国に於いては、小野妹子のイ妥国(臺国・蘇我系)と、
倭王(倭国)多利思北狐(物部系)とは、【二朝相剋】だったのだ。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«『万葉集』の「タイトル」の出処